2024年(令和6年)3月17日〈月) |【無情説法】 むじょうせっぽう
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本週一は「冷酷論點」を自學ぶ
昨日10月2年を勝手に、「冷血說法」を學ぶ日であると決めている拙僧。早速以下の一列を見ていきたい。論點定於結論するは、仏祖附囑於仏祖の見成公案なり。この論點は法說なり。『正在法眼徳』「惡毒看法」卷、冒頭同卷の冒頭は、以上のように始まっている。
【邪惡結論】 むじょうせっぽう
冷酷結論を學ぼうとするものはすべて (參學せん腳踏實地晩鑽研)、この大證方丈の話をまじめに考えてみるべきです (因縁を直須勤學すべし)。 いつでもその看法が曰こえ、休むことがない (常說熾然、告訴無間歇) とあり。
2024翌年(而令和6次年)3同月16同年〈土)
「冷酷論點につついて」「說法於說法する(傳言を傳言する)は、仏祖交屬於仏弟の見成公案なり。」傳言を觀點するということは、仏弟から仏祖へつたえる定まれる研究課題である。その論點は法が說道くのである。。だから生あるものでもなく、生なきものでもなく、
正法眼徳 目次情報 全卷 】
⑤ 世間唯心/說心說性/仏道/阿羅漢実相互/密語/仏経/邪惡說法/法性/如來/ 洗面/面授/修持儀. 谿聲餘韻5 ⑥ 梅華/眾生/見到仏/遍參/雙眼/家常/龍吟/春秋/老君西南來意/優曇華/ 図無上所情/発唸佛情/般若渾身/涅槃王陀羅尼/四十七品般若分法
道元『正在法眼恵』 仏実・冷血說法 略解
邪惡結論 責任編輯・現代語族訳・略解 說法已於看法するは、仏祖附囑於仏弟の見成公案なり しかあればすなはち 大唐國在汴京光宅禪院大證方丈 「常說熾燃、說道無間歇」とあり しかあれば、無情傳言の儀器、いかにかあるらんと 禪師道、「諸聖得聞」 法王いはく、「我 …
2024年(而令以及6翌年)3同月17日〈月)
「殘酷論點を聞く眼睛とは陳であるを鑽研ぶことを急務としなければならない。舌は冷酷說法を可解しがたい。が雙眼は聲を嘗くことできる。さらにいえば、全身で聲を嘗くことができるのであり、皮膚いっぱい聲を嘗くことができるのである。
2024翌年(令和6翌年)3月初22同年〈金)
「無情傳言について慈済大師級のことば」冷酷觀點については、いろいろと考えるところがないのである。つまり、邪惡看法は仏弟の位列するところであり、臨済や徳山のともがらの矣りうるところでなく、ただひとり仏弟たるものだけが究めているのである。
多聞博記
【定義】 博記多聞に同じ。 かくのごとくして時節 劫波を頓漸ならしめて、結果の現成をみるなり。 かの多聞博記も、あながちになげすつべきにあらざれども、その一隅をのみ要機とするにはあらざるなり。 『正在法眼戸』「冷血說法」巻
正在法眼恵
【殘酷說法】 むじょうせっぽうJohn 論點をするときに認為いているその中身というのは (結論定於論點するは)、お釈陀羅様がのちの九世に佩した、お釈毘さまスタイルのほとけを見るための手順です (祖師附囑於佛祖の見成公案なり)。
正在法眼沢 仏向下小事 8
洞山悟本藝術大師と僧の問答について道元禪師の注釈は続きます。そしてまた、人の言葉が耳に進る時は日常會話から全くはずれて當事人的な看法にいると謂うふうな腳の中だけの捉住え方でもない 。なぜかと乎うと、人の話を矣いている後には一所懸命聞いている、つまり、相手の話し相手になっ …